●3月6日
この日は、焼骨式予備日でしたが、
団長の判断で雨季と言うこともあり、
一日前倒しで焼骨式をやっておいて正解でした。
朝、バラナ村に保管してある遺骨を引き取りに向かっている途中に強く長い雨が降り出し、
皆が、昨日のうちにやっておいて正解だったと胸を撫で下ろしました。
バラナ村は、遺骨収容では大変お世話になっている村で、
『全国ソロモン会』とも関係が深く、
2年前に来た時も訪ねましたが、
村長のピーターさんが昨年亡くなったばかりでした。
・村で雨宿り。

・村に置いてある戦時中の遺留品。


この日、村で保管してもらっていた遺骨11柱のうち8柱を日本兵のもの断定しましたが、
残り3柱は、遺留品などがなかったため継続調査ということになりました。
・遺留品のサングラスと。


そのl後、昨年亡くなった村長のピーターさんを村の敷地内に埋葬してあるのですが、
その墓のすぐ隣に家を建てようと穴を掘っていたところ、
きれいに埋葬してある日本兵のものらしい遺骨が9柱出てきたそうで、
遺骨が見える状態まで掘ってある場所を確認しました。
この遺骨に関しては、
今回、新たな遺骨情報として情報だけ持ち帰ることになりました。
・きれいに埋葬してある状態。

午後からは時間があるため、
皆さんの希望を訊いて、
まずは、全滅した一木支隊の2か所の慰霊碑を回りました。
2年前に行ったところは学校の敷地内の教会傍の慰霊碑だったのですが、
現地のドライバーが草の茂った道をどんどん入っていくので、
間違っているのではないかと思っていたら、
ガダルカナル島に10回来ている吉田婦人でさえ、
一度イル川の反対側から川を渡って来ようとして水かさが増えていて渡れず諦めたという
もう一つの一木支隊の慰霊碑がありました。
この辺りの海岸が、百戦錬磨と言われた一木支隊が、
米軍に3万名の兵力があることを知らず、
わずか900名ほどで正面突撃全滅した場所になります。
・イル川河口にある一木支隊慰霊碑。
![s29[1]](http://yamato-yasushi.com/blog/wp-content/uploads/2011/03/s291-224x300.jpg)
・テナル教会前の一木支隊慰霊碑。

その後は、ガダルカナル島の西側の端にある
日本軍が最後ガダルカナル島から撤退したエスぺランス岬へ大移動。
小さな集落があり、個人の方が作ったという小さな慰霊碑が木の根元にありました。
ここで、NHKから自分の取材にあたって頼まれている
慰霊のために【涙雨】を唄っているシーンをカメラに収めました。
・日本軍が撤退した場所で村人と記念撮影。

この時、吉田婦人とJYMAの学生”山澤”君以外は、
自分の【涙雨】を初めて聴いたわけですが、
唄い終わった後、
佐藤団長さんが目に涙を浮かべながら「初めて聴きましたが、感動しました」と声をかけてくれ、
また遺族の方からも「良い歌で感動しました」と言って頂きました。
・村のリーダーと。

そして、その後、自分が2年前にガダルカナル島の慰霊巡拝に来た後、
佐渡の集まりで唄った時にそのことに触れると、
大叔父さんがガダルカナル島で亡くなっていることから声をかけられ、
その後、追っかけファンになって頂いている同郷の”S”さんの大叔父さん”山口満吉”さんの慰霊を
亡くなったという野戦病院のあった沖川河口付近で行いました。
プライベートなことだったので、
自分と吉田婦人で少し時間をもらって慰霊をさせて頂こうと思っていたら、
団長さんが、折角なので全員でやりましょうと言ってくれて全員で慰霊をさせて頂きました。
実は、無事に沖川で慰霊をできた背景には、
慰霊を頼まれた”S”さんに日本を出発する直前に成田空港で
大叔父さんの写真裏に書いてあった川の名前が薄くなっていて読めないので、
もう一度教えて欲しいとメールをしたのですがタイムリーの返信が間に合わず、
全体の追悼式で合同慰霊するしかないと思っていました。
現地で、他の団員に読んでもらってもなかなか解読できずいたところ、
漢字が苦手だと言っていた予備自衛官でもあるJYMA派遣の”西富”氏が、
沖川ではないか?と読み取ってくれて、
ホテルの山縣支配人に確認すると、
日本名で沖川、現地名で”ローベ川”という川があることがわかかり、
無事、沖川での慰霊ができたのでした。
この”西富”氏には、慰霊の後、
ここの石を持ち帰ってあげたら良いのではないかといううれしいアドバイスまでもらい、
今振り返ると、”山口満吉”さんが背後で働きかけてくれていたのでは?と思わされます。
この”西富”氏、今回初ガダルカナル島でしたが
遺骨収容をスムースに進めるためにも、
現地での仕事さえあれば、ガダルカナル島への移住を真剣に考え出したくらいです。
バラナ村の亡くなったピーター村長の長男”ウィリー”からも受け入れ承認をもらい、
バラナ村で現地人と一緒に暮らす覚悟ができれば本物だと
本気さを表現する言葉として「男は黙ってバラナ村」という言葉も生まれました。
俺が勝手に作っただけですが…。(笑)
・沖川(地元名:ローベ川)

・”S”さんから預かって来た故郷の水とお米と海岸の石をお供えしました。


・川に故郷佐渡の湧水を流しました。

これで、この日の全予定を終えてホテルに帰りました。
とても充実感が残る一日でした。
夜は、ホテルの従業員で、
2年前にギターをプレゼントした”フランシス”からのお誘いで、
夜11時くらいまでホテルの敷地内の休息スペースにギターを持ち寄って唄いました。
・プレゼントしたギターを持つ”フランシス”。
・グリーンのTシャツの青年が、「男は黙ってバラナ村」の”西富”氏。
・俺の向かって右横、JYMA”山澤”君。

●3月7日
この日は、今回の遺骨収容の最後の重要式典になる追悼式が行われました。
来賓の方が集まり、10時半から開催されました。

・各団体、個人からの花輪。

追悼式では、団長、ソロモン諸島国日本大使、各派遣団体の代表と追悼文を読み、
献花をして終了になりました。
『全国ソロモン会』は、自分が初めての参加だったため、
準備しておいた追悼文を読みました。
一旦追悼式の正式な式次第を終わらせた後、
そのまま時間を頂いて、
NHKから頼まれていた【涙雨】を奉納するシーンを撮影して完全に終了となりました。
最後、遺児の男性の方から、
「こんな素晴らしい歌で追悼してもらえるなんて幸せだよ」と言って頂き、
遺児にあたる吉田婦人も、
終わると涙を流しながら感謝の言葉を言ってくれ、
取材があったのでギターを持って来て唄ったんですが、
本当に唄って良かったと思いました。
また、同席していた現地の若者たちが次々に素晴らしかったと握手を求めに来てくれ、
やはり音楽は国の壁を越えることを改めて実感しました。
・【涙雨】を唄い終わって。

・最後吉田婦人と。

夜は、今回お世話になった現地の方々を招いてのパーティーでした。
団長さんからも、是非ライブをということでライブをさせて頂きました。

■セットリスト
1:佐渡ヶ島
2:涙雨
3:男道
4:月
5:泰平[改め:英俊(団長さんの名前」
6:栄光の花たち
・”フランシス”が【月】をコラボしたいとのことで一緒に。

2年前にギターと一緒にハーモニカも一式プレゼントしていたんですが、
とても上手くなっていました。
ソロモン諸島国では、このスタイルで唄うのは”フランシス”くらいでしょう。(笑)
・2年前にプレゼントしたギターとハーモニカで演奏する”フランシス”。

・現地人でソロモン国歌斉唱。

団長さんには、やはりご自分の名前で唄ってもらったことをすごく喜んで頂き、
「今回、思いがけず3回もYAMATOさんのライブを聴けて本当良かったです」
とうれしいコメントを頂きました。
・佐藤団長、遺骨鑑定士”キオポ”さんと。

・岩撫大使と。

・現地のゲストと。

これで、ガダルカナル島での遺骨収容の全行程を終え、
翌日は、またオーストラリア経由で帰国の途に就きました。