【朱鷺色の島~ふたたび~】をフォトスライドショーにしました。

4月16日の佐渡ライブに向けて、
HAYATO君とバンド練習用にセットリスト全曲のデモ音源を作ったのですが、
ライブ最初の滑り出しは、完全にハードロックですね。
滑り出しの曲と同じアーティストの曲とは思えないほど、
自分の楽曲の中ではかなり異質な曲ですが、
ライブでも唄う予定にしている【朱鷺色の島~ふたたび~】をフォトスライドショーにして
「YOU TUBE」にアップしました。

2008年の暮れに作った曲ですが、
その前から佐渡の知り合いの中で、
朱鷺をテーマに歌を作って欲しいという声があがり出し、
佐渡関係の人がすでに何人か作っていることもあり、
あえて俺が作らなくてもと思って、一年くらい抵抗していたのですが、
YAMATOが作る朱鷺の歌を聴きたいという強い声に負けて作った曲です。
実は、この曲ができた翌日、
行方不明になっていた一次放鳥の朱鷺が一羽、
野生動物に襲われて死んでしまっているのが見つかり、
この歌を朝日新聞の記者が取材してくれた時にも書いてもらいましたが、
何か死んだ朱鷺に捧げるような因縁めいた曲になりました。
最初から唱歌のように合唱できる曲をイメージして作ったのですが、
結局は、佐渡高校甲子園出場の時もそうですが、
朱鷺の野生復帰という夢を通して、
まずは、島が一つになることが大切ではないかという自分の願いを込めて作った曲です。

先日、佐渡に帰った時に行ったライブに、
思いも寄らなかったのですが、
朱鷺のために生涯を捧げ、
2009年5月に亡くなられた元トキ保護センター長”近辻宏帰”さんの奥様がいらしてくれました。
その時にはそうとは知らず、
【朱鷺色の­島~ふたたび~】は歌いませんでしたが、
うれしいことに帰りの車の中で早速購入いただいたCDを聴いて頂き
大変感動して頂いたようです。
そう言えば、その日、朱鷺に魅せられて遂に佐渡にIターンしてしまった
”KAZUE”さんとジャズシンガーの女性とも知り合いました。
そう言うご縁もあり、
デモ音源ですがレコーディングをしたので、
ふと思い出して”近辻宏帰”さんの追悼の意味を込めてフォトスライドショーにしてみました。

【朱鷺色の島~ふたたび~】
サムネイル

詞/曲 YAMATO 2008

1:朝焼け眩い故郷の空に
力の限りに羽ばたいた朱鷺よ
溢れる希望を描くかのように
その翼は朝陽を浴び黄金に光る

ああ故郷の空よ
朱鷺色に染まれ
島人の心一つに
朱鷺色の島 ふたたび

2:夕映え彩る故郷の空を
命の限りに翔け渡る朱鷺よ
流れる血潮を奮わせるように
その翼は夕陽を浴び真赤に燃ゆる

ああ故郷の空よ
朱鷺色に染まれ
島人の心一つに
朱鷺色の島 ふたたび

ああ故郷の空よ
朱鷺色に染まれ
島人の心一つに
朱鷺色の島 ふたたび

4月1日は、『Miiya Cafe』の定期ライブです。

さて、明後日4月1日は、銀座『Miiya Cafe』の定期ライブです。
ご都合がつきましたら足をお運びくださ~い!

●4月1日(金) 
YAMATO 定期ライブ
場  所:銀座【Miiya Cafe】http://www.miiya-cafe.com/
時  間:21:15~(全体19:00スタート)
チャージ:前売り¥2000 +1Drink


そう言えば、中国南寧「広西テレビ」の春節番組の収録に行った時に、
ベトナム国境にある『徳天瀑布』というきれいな滝があり、
プロモーションビデオ用の映像にと滝に行って撮影して来ました。
ギターを持って行っていたので、
近くの露天商の女性たちのリクエストで何曲か唄った時の動画をアップしました。
【月】を唄っていますが、滝の音が大きくてほとんど聴こえませんが。(笑)
サビは、中国語です。

でも、以前の中国を知っているだけに、
こんな内陸部の奥地に入っても、
今では携帯で普通に動画を撮るようになっている中国人の姿を見ながら、
改めて中国の経済発展をぶりを感じざるをえませんでしたね。

YAMATO 【月】 中国広西チワン自治区『徳天瀑布』での路上ライブ
サムネイル

・こんなきれいな滝でした。

佐渡高校野球部、応援団の皆さん、甲子園お疲れ様でした!

昨日は、ライブに行く前、
しっかりテレビで佐渡高校の甲子園を観戦できました。
結果こそは、8-1でしたが、
本当5回までは、甲子園伝統校”智弁和歌山”を相手に
この点差を感じないほど互角に良い試合をしてくれたと思います。
ピッチャーの層が薄い分、
途中からこれまでの連投の疲れが出て来たのは否めないと思いますが、
でも、大量点を取られた回以外は、本当によく抑えていたと思います。
佐渡高校がここまでやれるとは思っていなかったのではないでしょうか。
選手たちにはかなりの緊張があったと思いますが、
本当に、精一杯頑張っている様子が伝わって来ました。
この経験が、必ずや今後に活かされていくと思うので、
夏に向けて更に頑張って欲しいものです。
アルプススタンド一杯の応援団の皆さんもお疲れ様でした!

さて、野球観戦の後は『APIA』へ向かいライブでした。
負けた後でしたが、
しっかり【栄光の花たち】を唄って来ました。

■セットリスト
1:立ちあがれ
2:永別の空
3:涙雨
4:栄光の花たち
5:月
6:それだけで幸せなこと

来てくれたお客さんとお茶をした後は、
CDの注文を頂いていた”サイチャン”のお誘いで
田園調布の”サイチャン”の知り合いのお店を2軒回りました。

1軒目は、居酒屋 『鳥鍈』へ。
かなり美味い店で有名らしく、
長嶋茂雄がよく来る店と言うことで写真が飾ってありました。
確かに、お店は一杯で、
次々にお客さんが入って来ていました。
”サイチャン”も20年以上通っているらしく、
お店のお母さんに俺のCDを渡して紹介してくれると、
亡くなったご主人さんの友人に佐渡の相川出身の人がいたという話になり盛り上がりました。
お店は、今は息子さんが切り盛りしています。

その後は、俺のライブができるのではないかと言うことで、
【NASSBEES】というBARがオープンする8時まで待って移動。
ママは、まだ出勤していませんでしたが、
カントリーダンス?で世界大会に出場経験があるとか。

席に座って間もなくして事件発生!
”サイチャン”が何やらヌルヌルするものを踏んでいたようで足元を見ると。

・何じゃこりゃあ!?

・よく見るとウンチ!

どうも前夜に生後4か月のシェパード犬を連れて来たお客さんがいたようで、
その子犬のウンチだったようです。(笑)
心の広い”サイチャン”は臭くなかったようなので、
しっかり掃除してお店の女の子に感謝されていました。

その後、ママさんが来てから俺のCDをプレゼントしてくれて、
早速PCに取り込んでお店でかけてくれました。
最後は自分もギターで2曲ほど弾き語って帰りました。

・カウンターで弾き語り。

・向こうがママさん。

・お店のママさんと従業員の女の子。

ウンの付いた”サイチャン”!

時間はすでに深夜1時近くだったので、
そのまま歩いて行ける”サイチャン”宅に宿泊し、翌日ゆっくりして午後に帰宅しました。
記念すべき佐渡高校甲子園出場の1日はこんな風に過ぎました。
ウンが付いた”サイチャン”お世話様でした!

いよいよ佐渡高校野球部の甲子園は明日!

今日は、午前10時からHAYATO君の自宅で
4月の佐渡ライブで演奏する楽曲の中から、
今回HAYATO君が新たにアレンジしてくれた楽曲を
サポートメンバーに渡すための音源として歌入れをしました。
大分、佐渡ライブが見えて来た感じです。
来て頂いた方が、あっ!と驚くようなライブにしたいと
HAYATO君もかなり力を入れてくれていますので、
お越し頂ける方は、楽しみにしていてくださ~い!

・チケット

さて、いよいよ佐渡高校野球部の甲子園の試合が明日になりました。
明日は、自分のライブと重なり甲子園への応援には行けませんでしたが、
第一試合9時スタートです。
ライブは午後からなので、試合を見てから家を出ればOK。
ラッキーでした!
相手は、甲子園の伝統校”智弁和歌山”。
緊張するなと言っても、初めての甲子園ですから、
緊張しない方がおかしいと言っても良いくらいだと思いますが、
ある意味開き直って伸び伸びとプレイして欲しいですね。
とにかく本人たちに悔いが残るのが一番よくないので、
持てる力を出し切って頑張って欲しい!
勝利を祈ってま~す!

試合が終わってからになりますが、
明日のライブは、【栄光の花たち】のお披露目になりますね。
2011 【栄光の花たち】 ~佐渡高校甲子園出場応援歌~(フォトスライドショー)

ソロモン諸島遺骨収集追悼式での追悼文と日本人の精神性

先日、行って来たソロモン諸島方面の遺骨収集の最後に行った追悼式で読んだ追悼文です。

●追悼文

本日此処に、平成二十三年度政府派遣ガダルカナル島遺骨収集団、「全国ソロモン会」を代表しまして、謹んで当地ソロモン群島方面に於いて戦没せられし御英霊に、追悼、慰霊の言葉を言上致します。

 今年、戦後六十六年目を迎えました。先の大戦で、御英霊の皆様と共にこの南方激戦地で護国のために命を懸け、復員された戦友の皆様もすでにご高齢になられ、年々、この遥か南方の地まで、皆様の慰霊、遺骨収集にと足を運ぶ日本人が減っ来ている現実があります。そう言う自分自身におきましても、つい3年余り前までは、過去の戦争に対して取り分け問題意識を傾ける人間ではなく、一般的な日本人の若者世代同様、どちらかと言えば無関心な人間でした。そんな自分が、慰霊活動を行うまでになったきっかけは、3年余り前に、深夜、たまたまテレビをつけると放映されていた、この地ガダルカナル島における遺骨収集のテレビキュメンタリー番組でした。偶然と言うより何か見せられたという気がしてなりませんでしたが、その中で、慰霊祭を始めようとすると雨が降り出す場面があり、生前大変お世話になった「全国ソロモン会」の故菊本享事務局長さんが、”英霊の涙雨”と話された言葉に、今まで感じたことのないような大変な衝撃を受けました。そのことがきっかけで【涙雨】という鎮魂歌を作り、「全国ソロモン会」の知人であった吉田幸子さんを通して会に提供したところ大変感謝され、今や「全国ソロモン会」の会員となり、最初は、2009年にガダルカナル島、ブーゲンビル島、昨年は、シベリア抑留で亡くなっている伯父の慰霊にと、ギターを持って慰霊団に同行し、鎮魂歌として作った【涙雨】を各地慰霊碑で奉納させて頂き、この度は、思いもよらず、政府派遣の遺骨収集団として、この地ガダルカナル島に再度訪れることができました。自分自身がそうであったように、今はただ知らないだけで、我々以下、次の世代を担う者たちが、何かのきっかけで、今の平和の礎が、御英霊の皆様の尊い犠牲の上に成り立っているという事実をしっかり受け止められた時に、もしかして意識を傾け、その中から何か具体的な行動に移す者が出てくるかも知れない。僭越ながら自分自身の音楽活動が、その一助になってくれればと、そんな一縷の望みを込めて【涙雨】を唄わせて頂いています。
 ややもすると、世界の経済大国になった繁栄と裏腹に、公より個を強く主張しようとする風潮の強い、憂い多き現代社会になってしまったことも事実であり、自殺、いじめ、虐待など、命の尊厳に反する痛ましい事件までもが横行しています。戦時中、我々と同じように愛する者がいて、胸躍らせるような夢をもつことができたはずの御英霊の皆様が、個人では避けることのできない戦時下の情勢の中で、純粋に国の行く末を憂い、国のために、故郷のために、愛する者のためにと、自らの命を賭して戦地に赴かれ散華せられたその尊い犠牲、その事実は日本人の歴史の中から決して忘れ去られてはならないし、個々人の心の中にもしっかり留めて、もう一度、命の尊厳というものを考えながら、真の平和を希求していかなければならないと強く感じています。
 最後になりますが、【涙雨】の冒頭の歌詞に”いったい幾つもの季節が流れたの 届かぬ想いを置き去りにしたままで”という部分があります。戦後六十六年経った今も、戦時中と変わらず、この南方の夜空に南十字星が輝いていますが、御英霊の皆様は、南十字星を見上げながら、祖国を、故郷を、家族を、恋人を懐かしみながら、どれだけの想いを馳せたことでしょうか。その計り知れない無念なる思いを少しでも晴らせるよう、微力ではありますが、今後とも尽力して参ることをここにお誓いし、謹んで本日の「全国ソロモン会」の追悼、慰霊の言葉と致します。

平成二十三年
日本国政府派遣 遺骨収集団 
「全国ソロモン会」代表 山登 靖

■ 2010.11.5全国リリース【涙雨】( PV・ショートバージョン)

■ 2010 【涙雨】ブーゲンビル島慰霊巡拝Ver.

HAYATO君が、4月16日の佐渡ライブで唄う楽曲のアレンジ等を進めてくれていますが、
今日、新たにバンドアレンジで作ってくれた【誓い】のオケを聴きながら、
ステージでの演出を考えていたところ、
やはり、この歌は、HAYATO君が言うように特攻直前の特攻隊員の心情に通じる歌で、
久しぶりにインターネット上から特攻隊員の手紙を拾って読んでみようとして
一番最初に引っ掛かった手紙がこれでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【ある特攻隊員の遺書】 ~母親にあてた手紙~
 
 僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん、よく顔を見せて下さい。
しかし、僕は何も形見を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから、形見を見­てお母さんを泣かせるからです。
 
 お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■ 2010 【誓い】(フォトスライドショー)~気高き特攻隊員に捧ぐ~


特攻隊員に限らず、
戦時中は、多くの青年たちが死を覚悟して戦地に赴いたわけですが、
どの手紙、遺書を読んでも、一様に自分のことではなく、
親兄弟、奥さん、子供など、家族を思いやる言葉ばかりです。
バンドアレンジの【誓い】を聴きながら手紙を読んでいて涙が止まりませんでした。
戦時中の日本人の死を越えたところにある精神性の高さを感じてしまいます。
今、震災という逆境に立ち向かっている被災地の方々からも、
メディアを通してですが、そのような精神性の高さの一端を感じる気がします。
日本人は、根本的にそういう精神性の高さを持っていることを誇りたいですが、
そういう精神に反する被災地での窃盗が徐々に問題になって来ています。
どんな時代でも多かれ少なかれいるのでしょうが、
日本人として一丸となって乗り越えないといけない局面で、
人間としてあるまじき行為は止めて欲しいと願うばかりです。  

佐渡から帰り、26日は『APIA』でライブです。

佐渡から帰りました。

・最近降った雪で、大佐渡の山々は雪景色でした。

佐渡は計画停電などの影響もなく、
夕食に入ったお店で、納豆を使った料理が無かったくらいでした。
予定していた20日の佐渡でのイベントライブ、
21日の新潟イオンでのライブは自粛中止でしたが、
20日夜、イベントの打ち上げ的にやる予定だった佐和田【SOW】で、
急遽、震災支援チャリティーという企画にしてライブをやるということで出演してきました。
【SOW】に行く前に、
4月16日の佐渡ライブ用のポスターやチラを作ってくれたデザイナー”奥川”さんのお店『一葉』で、
佐渡にIターンして音楽活動をしている”KAZUE”さんをご紹介頂きました。
お嬢さんも佐渡に来ていて、一緒に食事をして【SOW】に向かいました。
残念ながら”KAZUE”さんのサポートバンドメンバーは普段佐渡にないないので
出演はできませんでしたが、
お客さんとして聴いて頂き、
後で、「力強い唄とギターで、震災の暗さを一瞬でも忘れることができました」
というメールを頂きました。

・”KAZUE”さんと。

■セットリスト
1:佐渡ヶ島
2:栄光の花たち
3:月
4:涙雨
5:泰平(改め:道子)
6:男道
7:それだけで幸せなこと

自分のライブを初めて聴いて頂く方がほとんどでしたが、
本当に良い反応を頂きました。
自分以外に出演していた女性二人のボーカルも良かったですよ。

・ライブ後ステージで。

・お名前拝借コーナーでお名前をお借りした”道子”さんとマスター。

お名前をお借りした”道子”さんに、
御礼にソロモン諸島のお土産のネックレスをプレゼントしたら早速つけてくれていました。
”道子”さんのご主人さんは、
残念ながら亡くなられてしまったようですが、
佐渡の朱鷺のために生涯尽力された佐渡トキ保護センター元センター長の”近辻宏帰”氏。
帰りの車中で早速購入いただいたCDを聴きながら帰って頂いたようで、
後から大変感動して頂いたとのことで、”奥川”さんを通してCDの追加注文を頂きました。
うれしい限りです。

【SOW】を出ると、
佐渡で俺の写真を撮ってくれているカメラマン”若林”氏が、
昨年12月に俺の写真を撮ってくれた日に紹介してくれて以来、
熱心に俺の宣伝をしてくれている
佐和田の【ペルボナ】という喫茶店のマスターと行きつけのお店へ。
丁度、社長がいて、
ご自分がバンドを組んで音楽をやる方なので、お店にも立派なステージがあり、
ゆくゆく、お店で俺のライブをという話もさせて頂きました。
社長のギターを借りて、2曲ほど唄わせてもらいました。

その翌日は、やはり【ペルボナ】のマスターが、
俺も3年ぶりくらいになるかも知れませんが、
俺のポスターを貼ってくれている【アリス】というお店に行こうということで行きました。
しっかりポスターを貼って頂いていました。
最後は、営業時間を過ぎてもママさんが付き合ってくれて、
内輪4人での話の中で震災の話になり、
何か、被災地を励ますような歌を作って欲しいということになったのですが、
よく考えたら自分の既成の曲で
【それだけで幸せなこと】という曲が内容としてぴったり合うかも知れないと言うと、
是非、今唄って欲しいと言うことでお店にあるガットギターで弾き語りました。
実は、『ペルボナ』のマスターは、
『SOW』のライブで唄った時に【それだけで幸せなこと】が大変気に入ったようなんですが、
唄い終わると、ママさんも大変感動してくれて、
もう一人の男性も目に涙を浮かべて感動してくれていました。

本来、20、21日のイベントが中止になったので、
佐渡行きをどうしようかと迷っていたのですが、
結果的には、実りある帰省になりました。
4月のライブ前に、佐渡テレビでもコマーシャルをして頂けるということなので、
もう一度帰って来る予定です。

さて、26日(土)、『APIA』での定期ライブです。
佐渡高校の第一試合がこの日にぶつかったので応援には行けなくなりましたが、
朝、試合を見てからライブに向かう感じになりますね。
是非、ご都合がつきましたらお越しくださ~い!

●3月26日(土)YAMATO定期ライブ
場  所:目黒【APIA Forty40】
http://apia-net.com/
時  間:14:00~
チャージ:¥1500+1Dr

それと、”KAZUE”さんのライブのご案内です。
ゲストでの出演のお話も頂きましたが、
是非、ご都合のつく方は足をお運びください!

5/31(火) 18:30開場 19:00 開演
渋谷 公園通りクラシックス  http://www.radio-zipangu.com/koendori/
    前売り 2500円 当日 3000円

vo 朗読 kazue
pf 野田ユカ
b 佐藤’binny’孝紀
per 河野’菌ちゃん’俊二
vl 岩出なつみ

5/25 『悠久のラブ・ソング』発売の記念ライブです。
CDは以下で予約受付中です。
amazon
http://www.amazon.co.jp/%E6%82%A0%E4%B9%85%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0-c-w-%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F-kazue/dp/B004QQ3MPY

楽天
http://item.rakuten.co.jp/surprise-web/aznwel-20112/

タワーレコード
http://tower.jp/artist/1907383/kazue

オンラインショップ芽瑠璃堂
http://www.clinck.co.jp/merurido/dtl.php?ky=WEL20112

佐渡に向かいま~す!

元々、佐渡で20日に行うライブイベントと、
21日、新潟のイオンで行うイベントでライブをする予定でしたが、
地震のため自粛中止となりました。
と言うことで、佐渡に行こうかどうか迷っていましたが、
昨日佐渡から電話があって、
当初、20日のライブイベントの後、
打ち上げ的にライブをすることになっていた佐和田「SOW」でライブをします。
俺に初めて会えるのを楽しみにしているお客さんもいるということで、
プライベート的にやるライブになるので、
4月16日のアミューズメント佐渡でのライブの営業、準備も兼ねて行くことにしました。
20日(日)19:00~ 「SOW」
アコースティック中心に何組かでやるようです。
場所がわかってご都合がつく方、お越しくださ~い!

高校野球も無事に開催が決まったようで何よりでした。
災害地の東北の高校が出場を宣言していたので中止になってほしくなかったですね。
佐渡高校の初出場もどうなるのか心配でしたが、
本当良かった。
試合二艇によっては現地に応援に行くことも考えていましたが、
自分の都内のライブと重なったので、
こちらで応援ですね。
ライブの時間的に試合はテレビで見れそうです。
健闘を祈ります!

★4月16日(土)
YAMATO LIVE 『男道』 in SADO
場  所:アミューズメント佐渡『はまなすホール』
http://www.e-sadonet.tv/~wakwaksado/
時  間:開場18:00 開演18:30
チケット:前売り¥3,000(当日¥3,500)(限定300名)
※2008年11月2日のメジャーデビュー記念ライブ以来の佐渡でのホールライブです。

■サポートメンバー
・Jembe:masa
・Piano&Keyboads:HAYATO
・E.Guitar:Taro Arai
・E.Bass:Shigeaki Saito
・Drums:Yoshiharu Mitsuoka

今日、佐渡テレビに電話したところ、
送ってあった【栄光の花たち】の音源を
佐渡高校野球部を紹介する番組内でしっかり使わせてもらったとのことでした。
4月16日のアミューズメント佐渡のライブも取材に入って頂けると言うことで、
4月に入ったら、一度出演してライブ宣伝させて頂けることになりました。
もう一か月を切ってしまったので、
是非、チケットお買い求めくださ~い!

ソロモン諸島遺骨帰還派遣(報告:5)

●3月8日
14:55ホニアラ発、ブリスベン行きでガダルカナル島を離れました。
実は、この日、空港に早めに行ったはずが、
団長さんが空港で両替し、遺骨などの超過料金分を支払う予定が、
空港の両替所で両替できないというハプニングが起き、
団長とドライバーの”フランシス”でマイクロバスで街に両替に向かいました。
ところが、なかなか戻って来ず、
フライト30分前になっても戻って来ない。
空港の職員からもそろそろ中に入ってくれとの催促。
でも、団長を置いても動けずにいると、
20分くらい前だったか、猛スピードで戻って来ました。
何と、両替をできると思っていったお店で両替を断られ、
ホテルに戻っても両替するお金が不足しているとかで駄目。
結局”フランシス”が銀行で並んでいる列に謝りながら割り込んで何とか両替ができたものの、
今度は、空港に戻る道が大渋滞。
団長は、もう完全に間に合わないと思い、
今日のフライトをキャンセルして、
大使館に連絡して、これからどうするかなど色々考え出していたとのことでした。
ところが、”フランシス”の運転がすごかったようで、
鬼のようにクラクションを鳴らしながら、
反対車線は逆走するは、歩道を走るはで、
団長も事故に会うのではないかとビビってしまうほどの運転で空港に滑り込んだとのことでした。
後から、団長が訊いてわかったことですが、
当の”フランシス”は、何も無かったかのように涼しい顔で我々を見送ってくれました。(笑)
いやいや、危機一髪でした。

・遺骨は、こういう箱に入って運ばれます。

帰りは、オーストラリアの税関にきちっと話が通っていて、
税関職員が出迎えてくれていてスムースに抜けられました。
とにかく、オーストラリアの税関は
外来種の動植物などを国内に持ち込まれないようにチェックが厳しく、
ガダルカナル島で買った貝殻のネックレスにワンポイントで木の実が付いたものは、
木の実の部分だけペンチで取られてしまいました。(笑)
実は、もしかしてと思いスーツケースに入れないでわざと首につけていたので、
やっぱり駄目なんだという感じでした。
木の彫り物などの土産物も、きちんと申告していないと取り上げられてしまうようです。
そのくらい厳しいですね。
ブリスベンから、その夜の宿泊先のゴールドコーストに行き一泊。

・ゴールドコーストのホテルからの夜景。

●3月9日
朝10:50ゴールドコースト発、成田行きの便に乗り、
19:00頃無事に成田に着きました。
すでに厚労省の職員が迎えに出向いてくれていて、
日本では、税関を完全に別ルートでフリーパスで抜け、
用意してあったバスに乗り、
その夜は、翌日が千鳥ヶ淵での遺骨の引き渡し式のため九段会館で一泊になりました。
『全国ソロモン会』のメンバーやJYMAの学生たちが迎えに来てくれていて、
皆で会食をしてその夜は解散しました。

●3月10日
千鳥ヶ淵での遺骨引き渡し式当日。
朝、9時半にバスが九段会館まで迎えに来て、
厚労省の団長、副団長お二人以外の今回の派遣団員6人一人一人が、
それぞれ今回帰還した遺骨の入った箱を一箱ずつ捧持し、
そのバスに乗って千鳥ヶ淵墓苑まで向かいました。
実は、現地では、作業に追われてそれほど特別な思いが湧いたりすることは少なかったのですが、
千鳥ヶ淵墓苑に向かうバスの移動中、
膝に遺骨を捧持しながら車窓から見える千鳥ヶ淵のまだ咲いていない桜並木が目に入ると、
戦後66年経って、やっと祖国日本に帰ってこれた遺骨なんだという想いが込み上げ、
胸が一杯になってしまいました。
10時から引き渡し式で、
時間になると生演奏に合わせて遺骨を捧持した我々が丁寧に迎えられ式典が始まりました。
そして、式典中は、
献花に来られた遺族の方々が、中には涙を流されている方も多くいるわけですが、
我々に感謝を込めてお辞儀をしていってくれる姿を見ながら、
やはりそこでも胸が一杯になってしまいましたね。
引き渡し式の後は、すぐ派遣団の解団式も行い、
我々政府派遣遺骨帰還団の任務は終わりました。
その後は、皆それぞれ三々五々解散しました。

素晴らしい団長さんの元、JYMAの青年たちも本当によく動いてくれて、
また団員相互が一致団結して本当に有意義な派遣期間を過ごさせて頂き感謝でしたし、
近年では大変多い数になるらしいのですが、
無事163柱を日本に帰還させることができました。
まだまだ、残っている遺骨の数を考えると少ないのこま知れませんが、
今回思ったのは、
遺骨収容が済んでいる勝戦国アメリカとは明らかに遺骨のある場所の条件が違うということ。
日本兵は、戦死した数が多いのはもちろんですが、
過酷なジャングルなどで亡くなっている方が大変多いことが、
遺骨収容の難しさを生み出している原因にもなっているということ。
『全国ソロモン会』の遺児の方々もどんどん年齢が高くなっていっていますので、
今後も、自分も中心的に遺骨収容に関わっていくことは間違いないと思うのですが、
機会を頂ければ、伯父が亡くなったシベリアでの遺骨収容にも参加したいという思いもあります。

これから、ますます、戦友の方は少なくなり、
すでに現地での作業ができる方はわずかになっていますし、
その後を引き継いでいる遺族特に中心的な遺児の方々も70歳代前後です。
そうなると、明らかに次の世代に引き継がれないといけないことは明確で、
遺族と言っても、孫の世代や親戚などとなると、
直接的に遺骨帰還事業に関わる方はかなり少なくなってしまうのは間違いないでしょう。
そういう直接的に関係する遺族などの枠を越えて、
思いのある若い世代が積極的に関わっていかないとなかなか進まなくなるでしょう。
『全国ソロモン会』も自分も含め、
戦友、遺族とは関係ない若い世代が入会して動き出していますので、
年会費5000円がかかりますが、自由に入会できます。
関心、思いのある方は、是非お声をおかけください。

長くなりなりましたが、
これでガダルカナル島政府j派遣の遺骨収容の報告を終わります。
お読みいただいた皆さん、ありがとうございました!

ソロモン諸島遺骨帰還派遣(報告:4)

●3月6日
この日は、焼骨式予備日でしたが、
団長の判断で雨季と言うこともあり、
一日前倒しで焼骨式をやっておいて正解でした。
朝、バラナ村に保管してある遺骨を引き取りに向かっている途中に強く長い雨が降り出し、
皆が、昨日のうちにやっておいて正解だったと胸を撫で下ろしました。
バラナ村は、遺骨収容では大変お世話になっている村で、
『全国ソロモン会』とも関係が深く、
2年前に来た時も訪ねましたが、
村長のピーターさんが昨年亡くなったばかりでした。

・村で雨宿り。

・村に置いてある戦時中の遺留品。

この日、村で保管してもらっていた遺骨11柱のうち8柱を日本兵のもの断定しましたが、
残り3柱は、遺留品などがなかったため継続調査ということになりました。

・遺留品のサングラスと。

そのl後、昨年亡くなった村長のピーターさんを村の敷地内に埋葬してあるのですが、
その墓のすぐ隣に家を建てようと穴を掘っていたところ、
きれいに埋葬してある日本兵のものらしい遺骨が9柱出てきたそうで、
遺骨が見える状態まで掘ってある場所を確認しました。
この遺骨に関しては、
今回、新たな遺骨情報として情報だけ持ち帰ることになりました。

・きれいに埋葬してある状態。

午後からは時間があるため、
皆さんの希望を訊いて、
まずは、全滅した一木支隊の2か所の慰霊碑を回りました。
2年前に行ったところは学校の敷地内の教会傍の慰霊碑だったのですが、
現地のドライバーが草の茂った道をどんどん入っていくので、
間違っているのではないかと思っていたら、
ガダルカナル島に10回来ている吉田婦人でさえ、
一度イル川の反対側から川を渡って来ようとして水かさが増えていて渡れず諦めたという
もう一つの一木支隊の慰霊碑がありました。
この辺りの海岸が、百戦錬磨と言われた一木支隊が、
米軍に3万名の兵力があることを知らず、
わずか900名ほどで正面突撃全滅した場所になります。

・イル川河口にある一木支隊慰霊碑。

・テナル教会前の一木支隊慰霊碑。

その後は、ガダルカナル島の西側の端にある
日本軍が最後ガダルカナル島から撤退したエスぺランス岬へ大移動。
小さな集落があり、個人の方が作ったという小さな慰霊碑が木の根元にありました。
ここで、NHKから自分の取材にあたって頼まれている
慰霊のために【涙雨】を唄っているシーンをカメラに収めました。

・日本軍が撤退した場所で村人と記念撮影。

この時、吉田婦人とJYMAの学生”山澤”君以外は、
自分の【涙雨】を初めて聴いたわけですが、
唄い終わった後、
佐藤団長さんが目に涙を浮かべながら「初めて聴きましたが、感動しました」と声をかけてくれ、
また遺族の方からも「良い歌で感動しました」と言って頂きました。

・村のリーダーと。

そして、その後、自分が2年前にガダルカナル島の慰霊巡拝に来た後、
佐渡の集まりで唄った時にそのことに触れると、
大叔父さんがガダルカナル島で亡くなっていることから声をかけられ、
その後、追っかけファンになって頂いている同郷の”S”さんの大叔父さん”山口満吉”さんの慰霊を
亡くなったという野戦病院のあった沖川河口付近で行いました。
プライベートなことだったので、
自分と吉田婦人で少し時間をもらって慰霊をさせて頂こうと思っていたら、
団長さんが、折角なので全員でやりましょうと言ってくれて全員で慰霊をさせて頂きました。
実は、無事に沖川で慰霊をできた背景には、
慰霊を頼まれた”S”さんに日本を出発する直前に成田空港で
大叔父さんの写真裏に書いてあった川の名前が薄くなっていて読めないので、
もう一度教えて欲しいとメールをしたのですがタイムリーの返信が間に合わず、
全体の追悼式で合同慰霊するしかないと思っていました。
現地で、他の団員に読んでもらってもなかなか解読できずいたところ、
漢字が苦手だと言っていた予備自衛官でもあるJYMA派遣の”西富”氏が、
沖川ではないか?と読み取ってくれて、
ホテルの山縣支配人に確認すると、
日本名で沖川、現地名で”ローベ川”という川があることがわかかり、
無事、沖川での慰霊ができたのでした。
この”西富”氏には、慰霊の後、
ここの石を持ち帰ってあげたら良いのではないかといううれしいアドバイスまでもらい、
今振り返ると、”山口満吉”さんが背後で働きかけてくれていたのでは?と思わされます。
この”西富”氏、今回初ガダルカナル島でしたが
遺骨収容をスムースに進めるためにも、
現地での仕事さえあれば、ガダルカナル島への移住を真剣に考え出したくらいです。
バラナ村の亡くなったピーター村長の長男”ウィリー”からも受け入れ承認をもらい、
バラナ村で現地人と一緒に暮らす覚悟ができれば本物だと
本気さを表現する言葉として「男は黙ってバラナ村」という言葉も生まれました。
俺が勝手に作っただけですが…。(笑)

・沖川(地元名:ローベ川)

・”S”さんから預かって来た故郷の水とお米と海岸の石をお供えしました。

・川に故郷佐渡の湧水を流しました。

これで、この日の全予定を終えてホテルに帰りました。
とても充実感が残る一日でした。
夜は、ホテルの従業員で、
2年前にギターをプレゼントした”フランシス”からのお誘いで、
夜11時くらいまでホテルの敷地内の休息スペースにギターを持ち寄って唄いました。

・プレゼントしたギターを持つ”フランシス”。
・グリーンのTシャツの青年が、「男は黙ってバラナ村」の”西富”氏。
・俺の向かって右横、JYMA”山澤”君。

●3月7日
この日は、今回の遺骨収容の最後の重要式典になる追悼式が行われました。
来賓の方が集まり、10時半から開催されました。

・各団体、個人からの花輪。

追悼式では、団長、ソロモン諸島国日本大使、各派遣団体の代表と追悼文を読み、
献花をして終了になりました。
『全国ソロモン会』は、自分が初めての参加だったため、
準備しておいた追悼文を読みました。
一旦追悼式の正式な式次第を終わらせた後、
そのまま時間を頂いて、
NHKから頼まれていた【涙雨】を奉納するシーンを撮影して完全に終了となりました。
最後、遺児の男性の方から、
「こんな素晴らしい歌で追悼してもらえるなんて幸せだよ」と言って頂き、
遺児にあたる吉田婦人も、
終わると涙を流しながら感謝の言葉を言ってくれ、
取材があったのでギターを持って来て唄ったんですが、
本当に唄って良かったと思いました。
また、同席していた現地の若者たちが次々に素晴らしかったと握手を求めに来てくれ、
やはり音楽は国の壁を越えることを改めて実感しました。

・【涙雨】を唄い終わって。

・最後吉田婦人と。

夜は、今回お世話になった現地の方々を招いてのパーティーでした。
団長さんからも、是非ライブをということでライブをさせて頂きました。

■セットリスト
1:佐渡ヶ島
2:涙雨
3:男道
4:月
5:泰平[改め:英俊(団長さんの名前」
6:栄光の花たち

・”フランシス”が【月】をコラボしたいとのことで一緒に。

2年前にギターと一緒にハーモニカも一式プレゼントしていたんですが、
とても上手くなっていました。
ソロモン諸島国では、このスタイルで唄うのは”フランシス”くらいでしょう。(笑)

・2年前にプレゼントしたギターとハーモニカで演奏する”フランシス”。

・現地人でソロモン国歌斉唱。

団長さんには、やはりご自分の名前で唄ってもらったことをすごく喜んで頂き、
「今回、思いがけず3回もYAMATOさんのライブを聴けて本当良かったです」
とうれしいコメントを頂きました。

・佐藤団長、遺骨鑑定士”キオポ”さんと。

・岩撫大使と。

・現地のゲストと。

これで、ガダルカナル島での遺骨収容の全行程を終え、
翌日は、またオーストラリア経由で帰国の途に就きました。

ソロモン諸島遺骨帰還派遣(報告:3)

●3月3日 
ムンダでの遺骨収容を終え、
再び、ガダルカナル島ホニアラへ戻る日。
空港に行くと、今回作業を手伝ってくれた”タケンド”という青年が
お土産を持って見送りに来てくれていて、
日本語を話せる女性を紹介してくれました。
”八幡”さんという日本人と結婚している
イギリス人の血も混じっているという”アンジェリン・ヤワタ”という女性で、
自分のシンガー・ソングライター”YAMATO”の名刺を渡すと、
驚いたように「私、知ってますよ!」とのこと。
まさか、何かの勘違いだろうと思っていると、
「YAMATOさん、”雨”がつく歌を唄ってますよね!?」と言うので、
今度は、こちらがびっくりして、
「そうです!【涙雨】という歌を唄ってます」と答えると、
「うれしい~!まさか、本人に会えるとは思ってもみなかった」と本当にうれしそうでした。
何で知っているのか不思議で尋ねると、
「アグネスロッジ」の経営者と”アンジェリン”さんが親戚なので、
英語がわからない日本人が泊まると呼び出されることがあるらしく、
以前、日本人の青年が泊まった時にやはり呼び出されて、
その彼が、俺の【涙雨】のCDを持っていて、
”アンジェリン”さん自身も音楽が好きなので聴かせてもらったのを覚えていてくれたようです。
最初、「全国ソロモン会」の慰霊巡拝メンバーかとも思ったのですが、
どうも個人で来た青年らしいので、
戦史に興味があるか何かで個人的にムンダを訪れた青年なんでしょうね。
もし、このブログを読んで心当たりがあったら声をかけて欲しいものです。
いやいや、驚きの出会いでした。
戦争博物館のご主人とも親戚同士だとか。
6月に日本に来るかもしれない話をしていました。

・”アンジェリン”さんと。

朝10:55の飛行機で正午頃ホニアラに戻り、
午後からは、大使館で預かって頂いていたものと、
今回、現地に行ってから収容されたものの
合計140柱余りになる遺骨の洗骨作業に取り掛かりました。
場所は、ホニアラではよく”KITANO MENDANA HOTEL”の敷地内で
あまり一般の方の目の触れない場所を提供して頂くようなんですが、
実際は、雨に降られたりすると困るところ、
”KITANO MENDANA HOTEL”の支配人のご配慮で、
改装中のコンクリートがむき出しになっている部屋を貸して頂けて
雨の心配なく作業をすることができ感謝でした。

当初、3月6日に焼骨式を予定していたのですが、
団長の判断で、雨季と言うことを考慮して焼骨式を一日繰り上げ5日にし、
もし雨だった場合、6日が予備日になるように変更したので、
実質、一日半で作業を終えないといけないことになり、
ムンダでは、23柱で3時間ほどかかったことを考えると、
かなり厳しい作業になりそうなので全員が必死に作業をしました。
半日、全員が必死にやったので、
何とか翌日の目処が立って、夕方6時半頃にはその日の作業を終えました。
でも、皆座り込んで腰に負担がかかる姿勢での長時間作業のため、
時々休みながらでも、作業終了後は腰が痛くて大変でした。
子どもの頃やった田植えの後の腰の痛みを思い出しました。(笑)

●3月4日
この日は、とにかく時間との勝負。
朝8時から皆が黙々と洗骨作業を続けました。
一つ一つの遺骨を洗骨しながら、
この遺骨一柱一柱が、今は何処の誰だか全くわからないわけですが、
本来ならば、確実に”何処の誰”と言うことがはっきりしていたわけで、
愛する家族や兄弟姉妹がいたんだと思うと、
せめて一柱一柱が”何処の誰”までわかればという思いが胸に込み上げて来ました。
また、もしかして自分が洗骨しているこの遺骨が、
自分から先祖を遡ると、何処かで繋がっている人の遺骨かも知れないなど、
そんなことも思いましたね。

洗骨作業で一番困ったのが、
乾いた土から出てきた遺骨や、時間が経って遺骨に付着している土が乾いていれば良いのですが、
粘土質の濡れた土がたくさん付着している遺骨が多く、
それを落とすのに大変な時間と労力を費やしましたね。
乾いた土を落とすのの何倍も時間がかかる感じでした。
でも、本当に全員が頑張って、
朝8時から始めた作業を夕方6時半頃には完全に終え、
予定通り翌日の焼骨式を迎えることができる体制が整い、
団長はじめ団員一同ほっと一安心という感じでした。
とにかく、コンクリートの上に座り込んでのの作業、腰と尻は悲鳴をあげていました。(笑)

●3月5日
焼骨式当日。
場所は、アウステン山にある合同慰霊碑に近いちょっとしたスペース。
この合同慰霊碑には、
消しても消しても落書きなどの悪戯が絶えないため、
いよいよ寄付金を集めて管理人を付けることになったようです。
アメリカは、最初から管理人を付けた立派な大理石の慰霊碑を建てています。

・アウステン山合同慰霊碑。(隙間は日本の方向だそうです)

10時半から焼骨式を始めることになっていて、
朝8時にホテルを出て、
焼骨式を行うアウステン山にある合同慰霊碑に向かうと
本来現地の人に手配してとっくにできていると思っていた準備が全くなされておらず、
まあ日本人社会と違って現地人を使うに当たっては予期できる範囲のこととは言え、
10時半からということで来賓に声をかけてあるので、
間に合わない可能性が出て来て、
温厚な団長もこの時ばかりは少々怒りながら依頼してある現地人たちに催促の電話をかけ、
それからやっと焼骨式に使う木や薪、板金などをトラックに載せて来て、
一時はどうなるかと思ったものの、
何とか奇跡的に10時半からの焼骨式に準備が間に合いました。
現地の人の中では、ソロモン時間と言うのが普通のようですが、
日本人を相手にしている現地人は、
そのあたり大分訓練されてはきているものの、
念には念を入れて言っておいてもこういうことがあるんですよね。(笑)

・焼骨式の準備。

・板金を敷いた上の焼骨式用のやぐら。(この上にバナナの葉、そして遺骨を載せて焼きます)

無事、10時半から焼骨式を始められ、
灯油をかけた後点火式。
後は、遺骨が焼けるまでひたすら待ちます。

・佐藤団長。(骨が冷めやすいように散らばらせています。)

・焼骨が済んだ状態。

あとは、熱くなっている骨が拾えるくらいまで冷めるのを待ちます。
この日は、雨季とは言え、本当に暑い一日で、
皆熱射病にならないように帽子や傘をかぶりながらひたすら骨を拾いました。
上からの直射日光と焼けた遺骨が載っている板金からの照り返しの板挟みで
本当に暑かったですね。
夜は、軽い熱射病になったのか頭痛がしていました。

・焼けた遺骨が冷めてからミリ単位の細かい骨までなるべく拾います。

やはり雨季。
作業が終了する間際になって雲行きがおかしくなってきましたが、
何とか夕方5時くらいまでには、
無事に雨に降られることなくこの日の焼骨式を終えることができました。
実は、元々焼骨式を予定していた翌日6日は午前中から大雨になったので、
団長の一日早めて5日に焼骨式、6日を予備日にするという判断が大正解でした。

・焼骨式を終え、集まって来た現地の子供たちと。

この焼骨式の夜に不思議なことが。
実は、ホニアラに着いた1日の夜もあったのですが、
その時には、一度”コン”と部屋をノックををされたのでドアを開けても誰もいなく、
気のせいかと思いました。
ところが、焼骨式の終わったこの夜、
夜中目が覚めると1時半頃でした。
2年前の慰霊巡拝の時もそうだったのですが、
大体2,3時間寝ると目が覚めるんです。
ベッドの上で点けっぱなしていたテレビを見ていると”コン”とドアをノックする音が。
誰か訪ねて来たのかな?と思ったのですが、夜中1時半。
気のせいかな?と思っていると、また”コン”とノックの音。
テレビを点けたままにしていたので、
やっぱり誰か来たのかな?と思いながらも出るのを躊躇していると、また”コン”と。
”コン、コン”ではなく、必ず一度”コン”というノック。
三、四度ノックの音がしたのですが、出ないでいるとノックの音が消えました。
起きて椅子に座ってテレビを見ていると、
しばらくして、また”コン”とノックの音。
よっぽど覗き穴からでも確認しようかどうか迷いましたがそのままいると、
一度だけ”コン”というノックの音が三、四度してから、
最後だけはちょっと強めの”コン!”でノックの音が消えました。
もしかして、テレビの音が聴こえて、
今回の団員か、隣の部屋のパプアニューギニアの通訳の男性が尋ねて来たのかと
翌日確認しましたが誰も訪ねてないようでした。
『全国ソロモン会』の吉田婦人は、
「YAMATOさん、それは間違いなくよく来てくれたと英霊が感謝して訪ねて来たんだよ。
YAMATOさんに期待をしてるんだよ」と。
亡くなった『全国ソロモン会』の菊本事務局長さんの話を出して、
「菊本さんなんか、慰霊巡拝や遺骨収容に来ると頻繁にノックされると言ってたよ」
と言っていました。
明らかに自分の意識がしっかりしている時の出来事だけに、
何とも不思議な体験でしたね。
実際、慰霊や遺骨収容に来た方々は、
色んな体験をされる方が少なくないようなんです。
まあ、こんなこともありました。

WordPress Themes